会津レポート

会津ならではの記事満載(の予定)!!


今回の会津旅行の目的は、(新選組関連の史跡を実際にこの眼でみたい、というのはもちろんですが)長年の夢である一さんのお墓参りと、一さんの肖像画に関する謎を確かめるということ、そして彼が実際に隊を率いて戦った場所に行ってみるということでした。

まずは車で会津を目指す。そして、いきなり母成峠。現在では母成グリーンラインという有料道路がはしっています。石莚から車を走らせると、途中 戊辰戦争の時に西軍が結集した場所など 立て札がたっている。峠を登ってゆくと 銚子が滝 などを示す看板があったので車を停めて滝を目指すことにしました。

いやあ、あの滝はきつかったとだけここでは記しておきましょう。

母成峠の頂上付近には戊辰戦役 母成峠古戦場という碑が立っています。お隣りにはこの碑を建てるために寄付、協力した方々の名前が彫られた石がありました。くまなく名前をみたところ、なんと斎藤一さんという方がいらっしゃいました。

ここは、駐車場になっているので、車を置いて 東軍が築いたという土塁を探してみました。既に銚子が滝で瀕死の身体にむち打って、小高い丘とかをうろうろ登ってみました。が、漠然とした予備知識しかないため、結局見つけられませんでした。次回はもう少し詳しく調べてみたいです。

余談ですが、この土塁探しでうろついているうちに私たちは2人とも、思いっきりすっ転ぶなどのハプニングに見舞われました。ああ、おそろしや母成峠。(お互い三代以上続いた江戸っ子ですが、元をたどれば長州と薩摩なんです)ごめんなさい。しくしく。

峠の頂きにある碑の所から少し下ると、戊辰戦争戦死者の碑という目印があります。そこには母成峠の戦いで戦死した東軍の人達が葬られています。ひっそりとした場所にあるその碑の前で手を合わせると、抑え難い悲しみが込み上げてきます。

さて、峠を下り終えればあとは猪苗代湖畔を通って、十六橋へ向かい そこから会津若松へ。

翌日は朝からお墓参りの準備などをして、その後まず滝沢本陣へ行きました。ここは、名前の通り本陣なのですが、戊辰8月23日の西軍攻撃の際の、刀傷や弾痕が 実に生々しく残っています。

滝沢本陣は飯盛山の麓にあるので、そこから階段などを上って飯盛山に登りました。どうやら普通の人と逆の順路だったらしく、ことごとく順路の矢印が逆を向いてました(爆)。誕生日のおみくじがあったので 斎藤一の分も引いてきました。誕生日はいつにするか非常に迷ったんですが(1月1日か2日、あるいは西暦の2月18日か19日)こういうものは気合だし、一だからということで、1月1日のところからひきました。ちょっと笑えるおみくじの結果

白虎隊というと飯盛山で自刃した19人を思い浮かべがちですが、他にも戦って戦死した白虎隊士達がいるはずなので、彼らのお墓はどこかしらと、前から疑問だったのです。そうしたら、ちゃんと19隊士達と同じ場所に少し離れて葬られていました。中には十四歳と記された隊士も数人いました。ちゃんとお線香が置いてあるので、あげてきました。

19人の隊士達が鶴ヶ城を眺めたとされる場所から、城を眺めてみました。ここからでは、もし城下が火に包まれていたなら、お城が落ちたと思ってしまうのも仕方がないでしょう。あらためて合掌。

その後、あれが噂のエスカレーターかと、横目で眺めつつ階段を下って白虎隊記念館へ向いました。ところで私、今までずっと「びゃっこたい」だと思ってたんですけど、会津の方が皆さん「びやっこたい」と言っているのに気付いたんです。飯盛山で流してるテープでもそう言ってました。本当はどっちなんでしょうね。

ここの一番の目的は、山口次郎の肖像画。はやる気持ちを抑えつつ、1階をじっくり丁寧に見たおす。近藤先生や土方さん、島田さんの持ち物等が展示されている。特に土方さんの鎖帷子なんて、背格好が想像できて少しドキドキ。(稲葉さんの「山口次郎着用の鎖帷子」のレポートはここ。)

その他、高木盛之輔、佐川菅兵衛等の写真がずらっと並んでいる。

その後、続けて白虎隊伝承史学館へ。新選組関連のものは少うしだけあった。ちなみに一さん関係は、館長の方が赤間倭子さんと藤田家之墓の前でにっこりしているスナップ写真があった。

この日の午後は、如来堂を探せ!ということで、そこらの地理に疎い私たちは、猛暑の中、車で駆けずり回った。木と畑と民家があるだけで、周りは何もないのに見つからないんだこれが。

結局、庭の手入れをしている人を見つけて「近くに如来堂ってありますか?」とたずねてみたが、「知らない」と言って家に引っ込んでしまった。ショック。辺りには見渡す限りあなたしかいないのにぃぃっ。

結局車を捨てて歩くことにした。怪しげな所に片っ端から赴き、大量の蚊に刺され、更には でけえ犬に吠え続けられながらやっと見つけた。

その後、山口次郎がゲリラ戦を続けていた高田に行ってみました。面影はまったくなかったけど、アイスを買って食べながらうろうろする。彼は何を守ろうとして此処にとどまり、戦ったんだろう。何を求めていたんだろう。そして降伏のときに何を思ったんだろう。130年前、この場所は確かに戦場で、ここに流された血とか涙とか想いとかが土に染み込んでいるんだろう。その上をこうして今、自分は車で走っている。どんなに命懸けの一瞬も、いつかこうして まるで夢だったみたいに遠くに過ぎ去って行く。それを追いかけようとする者の胸に切なさを残して。


そして今度は猪苗代湖を目指して走り始める。行く先は土津神社。ここは直接 新選組とは関係ないけれど、初代会津藩主、保科正之を祀っている神社で、ここに三代から九代までの藩主の墓所もあります。彼に関する本を読んでどうしても行きたくなったのでした。鳥居をくぐってから奥の院さらに墓所(巨大な石があった)までが、結構きつい。天狗でも出そうな杉の木立の中を延々と続く山道。でもなんかいいよこれって感じ。猪苗代湖の眺めも格別でした。

日はとっぷり暮れて、またも一の眠る場所に限りなく近い宿に戻る。晩御飯には身欠き鰊(みがきにしん)が必ず出てくる。一さんも会津でこういうものを食べていたのかなあと思うと、苦手なものでも残さず食べてしまうのが人情と言うもの(ただの阿呆)。

翌日もまた朝から快晴。鶴ヶ城に向かう。城内にはいろいろなものが展示されています。松平容保をはじめ 白虎隊 隊士達の肖像画、そして歴代の藩主達がそれぞれ描かれた掛け軸、実際に使われた 刀、槍など。また、なんとも言えない いい色をした茶室が庭園にあり、それを眺めながらお茶もできます。

今あるお城は、当時のものではありませんが、このお城には、藤田五郎夫人となる 高木時尾さんが 篭城していたのだなと 暫し感慨にふけってしまいました。

そしてその後、会津武家屋敷に行き、「北辺に生きる会津藩」という資料を入手。この武家屋敷は家老西郷頼母邸を復元したもので、非常に興味深いです。しかし一家自刃の場が再現された部屋もあり、そこは見るのがつらいです。また個人的に興味のある千利休の息子 少庵が鶴ヶ城の本丸に造った茶室を復元したものもありました。ちなみにそのすぐ近くに「少庵」というお茶処がありまして…。(もうちょっと、こう、そのへんは考えてくれても…)。

その後は 焼物等を買い、喜多方でお約束のラーメンを食べ、さくらんぼ狩りをしに山形へ。

駆け足気味のところもあった今回の会津旅行ですが、子供の頃に来た時とは違った発見等もあり(目的が違うし)、とても有意義なものとなりました。今度はいつ行こうかな。




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