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母成峠の戦いは、東軍・西軍共に多くの死傷者を出しました。戦争というのはそういう物だと解ってはいても、ここで流されたたくさんの血を思うと、やりきれない気持になります。
母成峠の碑がある駐車場は、ちょうど峠の頂上に当たりますが、そこから少し行ったところに戦没者の慰霊碑という小さな立て札を見かけたので、降りていってみました。
本当にひっそりとした感じで慰霊碑はそこにありました。ここにあるお墓が建てられたのは昭和53年と書いてあるので、100年近くもお墓も建てられずにいたのかと思うととても悲しいです。
掲示板に書いてあった事を簡単にまとめて下記に記します。
戊辰8月22日、谷干城(土佐)は千名を率い勝岩へ進軍する。勝岩口には 勝岩上に大鳥の伝習第二大隊(会津、二本松兵併せて300名)、勝岩下には新選組70名を配置し 土方歳三、山口次郎が指揮をとった。萩岡の号砲を合図に勝岩口と本道口に分かれ、午前9時から7時間に及ぶ激戦が繰り広げられた。ここでの死者は東軍 88名、西軍25名であった。(東軍の死者88名のうち身元の分かるものは、会津 38名、二本松 8名、唐津 6名、新選組 6名)
勝岩がどんなところであったかは、銚子が滝のレポートで触れています。