掲載日 1997/09/20

京都レポート

京都ならではの日々・・・


今回の京都旅行の主な目的は、(暫し見納めの前に、あらためて新選組関連の史跡を巡りたい、というのはもちろんですが)霊山歴史博物館にあるという「別働第三旅団」の写真。

飲み会の後、夜行の寝台列車で京都を目指す。そして、つい何日か前にオープンしたらしい京都駅に朝6時ごろ到着。いきなり 油小路 へ徒歩で向かう。油小路は駅から近いところにありますが、当時の面影をまだ留めていると思います。本光寺には伊東甲子太郎が寄りかかって最後を迎えたという石の供養碑があります。彼の冥福を心から祈りたいと思います。 また、このお寺では「伊藤甲子太郎と本光寺との由緒」という資料(というか、B4サイズのプリント1枚)が50円で売っていました。さらに油小路七条まで歩く。ここで藤堂、服部、毛内が討死にしました。個人的に私は服部武雄が好きです。なんとなくなんですけど。

その後は西本願寺へ、ここはあまり新選組のいた名残があるわけではないのですが、うろうろしながら 同じようにうろうろしていたであろう彼らを偲んで 暫し もの思いにふける(ただの酔っ払いではという説あり)。ここで大砲をぶっ放したり、獣の肉で鍋をしたりしてたのね、あの人達は。西村兼文が「新撰組始末記」で、かなり新選組に対して批判的なのも少しだけ解る気がする。

そして更に歩いて 斎藤もその昔、うきうき通ったであろう角屋に向かう。ここの格子柄の外観が私は好きなんです。

その後は壬生寺へ行って、新選組関連の張り紙(斉藤一シンポジウムなるものが催されるらしい)を見て「ほう。」と感心したり、池にたくさんいる亀を眺めたりしながら、芹沢鴨さんや 勘定方の河合キ三郎の墓の方へ向かい、お参りをする。近藤先生の胸像もあり、そこには有名な新選組ファンのノートが透明のケースに入って置いてあった。たくさんある中から一冊だけ選んで、ページをめくってみた。なんとそれは斎藤二さんと言う方のノートだった。斎藤が好きな彼と、同じように斎藤が好きな人々がいろいろな事を書き綴ったノート。少し感激してしまった。そう言えば、ここでも大砲の調練したんだっけ。なぜいつも寺だ?

すぐ側にある八木邸は、実際に人が住んでいるので中には入れませんでした(あたりまえか)。<しかし、何と最近は予約をすれば入れるようになったそうなので、次回は是非 見せていただきたいと思います。>外から眺めるに すごくいい感じの建物で気に入ってしまった。

さて、朝っぱらから歩き過ぎて疲れたので、八木邸の前にあるお茶屋さんで休憩。屯所餅とお抹茶を頂きました。美味しかった。棚に置いてある新選組関連の本等を読んでいたら、あっという間に時間が経ってしまった。

その後、ご近所である前川邸(今では工作所?)の前を通って光縁寺へ行きました。光縁寺には山南敬介をはじめ、沖田氏縁者等、過去帳に記された新選組関係者は多いです。ちなみにお墓は4基あります。また、後に改葬されましたが 油小路の変で斬殺された4人が最初に葬られたのもこのお寺です。お参りをするのに100円だか150円だかの参拝料が必要です。しかし、今回なぜか私は気分的にこのお寺に入りたくなかったので、前を素通りしてしまいました。今度来た時は、きっとお参りをしたいと思います。話によると、このお寺にも新選組関連の本がたくさんあったり、ノートが置いてあったりするそうですね。そこから四条大宮にでてバスに乗り、お昼ご飯を食べに”おめん”へ。

その後、東山を経て霊山歴史館へ向かう。うーん、なかなか坂道がキツイ。京都にくる前に、例の写真は特別展の時だけかもしれないという事を聞き、ちょっと心配しつつちびちびと展示物を見て回りました。で、西南戦争の部分にたどり着く。展示物はどれも興味深いものばかりで結構楽しめました。で、あぁよかった、ありました、例の写真。もう、どきどきで 胸に手を当てて、しばらく眺める事数分、う〜む・・・ わからない、どれ?藤田さん て感じでした(何だそれ)。学芸員の方に、西南戦争についてや西郷隆盛氏のことなど、少しお話を伺ったりして、ついでに会員にもなり歴史館を後にする。会報は海外に発送してくれないらしい。写真については歴史館のところで触れていますが、写真は掲載していません。

霊山歴史館から坂を下り、右手にある駐車場を抜けて行くとそこが高台寺。私はもともとこのお寺がとても好きで、京都にくると必ず来てしまうのですが、斉藤一がかつては高台寺党の一員であったというのも何か不思議な縁だなと思います。更にこの高台寺の修復作業に、若旦那の大の仲良しが加わっていたとは ナントも・・・。

そして、高台寺をでて脇の石段を右に降りると そのすぐ右手に月真院 があります。高台寺党または 御陵衛士と呼ばれた伊東甲子太郎をはじめとする 新選組分離隊の屯所です。いつもは門が閉まっていて、外から眺めるだけだったのですが、今回はたまたま門が開いていて、中が少し見えました。でも、スクーターがとまってたり洗濯物が干してあったりで、ちょっとなんだかな・・・でした。

霊山歴史館と高台寺にかなり長居したので もうすっかり日が暮れてしまう。ちなみに高台寺は夜もすごくきれいです。明日は伏見に行くぞ。

翌日も早くから行動に出る。伏見までは京都駅から近鉄電車で「桃山御陵前」下車らしいのですが、私達は京都駅からバスで行きました(パスを持っていたから)。

まずは香宮神社へ行く。ここは駅から歩いて5分ほど、でも、バスで行った場合はすぐ近くにバス停があります(バス停を間違えなければ)。道標もあるのですぐにわかると思います。御香宮は鳥羽伏見の戦いの時に薩長軍が大砲などを備え、陣を構えたところです。境内に解説板や碑が建っています。ここから伏見奉行所に向けて、どっかん どっかん大砲を打ちかけたのですね。

香宮神社から伏見の奉行所跡までは徒歩10分弱位ですが、大きな団地はすぐに見つかってもガイドブックをもたない私達は随分と歩き回ってやっとその碑を見つけました、。どうやらここが、かつての奉行所跡らしいです。あぁ、暑い。

さて、今度は酒蔵を目指す。いや、有名な酒蔵があるんですよ伏見には。当時からここは酒蔵だったらしいので、酒といえば斎藤一、きっと伏見に陣取っている時飲んでいたに違いないぞと思い、だとしたら是非飲んでみたくなるのが親心(違うぞ)というもの。

いや、美味しかったっす、暑かったし(意味不明)。

それから、坂本竜馬が寄宿していたという寺田屋まで歩く。若者達がたくさんいましたよ。

この日の午後は、銭取橋探しにあてたのですが、いやぁ見つからない。もっとも、銭取橋は通称らしいので、今はなんて呼ばれてるんだか(ちゃんと調べてから行け)。竹田街道土橋?地図を見てあれやこれやと当たりをつけても結局駄目でした。これも次回に回す。

友達と明治屋の前で待ち合わせていたので、その前に池田屋あらためパチンコ屋に行く。池田屋騒動の址という碑を横目で見ながら素通り。あれ、写真取るの勇気がいります、私は挫折。さらにそこから四国屋跡まで足を伸ばす。池田屋騒動の時に斎藤一を含む土方隊が急襲した下宿屋さんで、土佐の武市半平太が下宿していた「丹虎」だったといわれています。

その後、友達と会って「志る幸」でご飯。ここはその昔、池田屋騒動直前に捕まりこっぴどい拷問をうけて志士達の計画を白状した、古高俊太郎が小道具屋を営んでいた家の跡です。もちろんお料理もすごく美味しいのですが、私の一番のお気に入りは何といってもトイレ。なんて言うか、ここで暮らしてもいいと思わせる風情があります。

そんなこんなで、余談になりますが、翌日は奈良で鹿と遊んだり、茶粥を食べたりし、夜は鵜飼。実際に見るまでは鵜がかわいそう、とか思っていましたが、人は変わるもの。鵜、もっと働きなさい。だってちっとも魚を獲ってないんですよこれが。

というわけで、新選組縁の地を訪ねる今回の京都旅行は終わったのですが、まだまだ行きたいところは他にもあるので、京都リポートも第2弾、第3弾と続いていくでしょう。




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