油小路 伊東甲子太郎の最後

 石
甲子太郎の石
 立て札
御陵衛士について書かれた立て札

油小路にある本光寺は法華宗の尼寺だそうです。

このお寺の門前にあった石塔に倒れ掛かり、伊東は息を引き取ったといわれています。その石塔は、今では供養塔として門の内側に移動しています。

ここで売られている、「元新選組参謀 伊東甲子太郎と本光寺との由緒」という資料について少し触れますと、伊東の新選組入隊から、近藤、土方との意見の相違による分離、斎藤の報告により自分の暗殺計画を知った近藤が、伊東を妾宅に招いた後殺害、本光寺前で伊東が絶命するまでを簡単に記してあり、余談としてその後に油小路七条で起きた事件にも触れています。そして、伊東の建碑についての経緯なども記されており、それによると昭和46年11月18日(伊東の命日)に石碑駒札の除幕式を行ったとあります。

この資料では、御陵衛士として分離したのは15名説になっており、その名前もすべて記述されています。三番隊組長 斎藤一(播州)はリストの最後に三角マーク付きで記され、(△斎藤は近藤が密偵方として伊東一派に同行させし者)となっています。

油小路の変で討死にした、毛内監物の子孫に伝わるという「青雲録」に「憎むべきは斎藤一なり」と記されているそうですが、実際に伊東が殺害されたところに立つと、やはり胸が痛いですね。

それでも私は、斎藤個人を責めるべきではないと思います。彼は自分の任務をやり遂げた人に過ぎない。見破られれば自分の命が危ない間者という役割を、彼はただ黙々とこなした。仮にも同士として共に過ごした仲間達を失う、しかも自らが引き鉄となって。彼の心にも痛みはあったはずです。

藤田家文書の中に記されている、伊東は自ら手をくだした、という一節は、自分の心について語る事のなかった斎藤が心情を表わした部分ではないでしょうか。この言葉は斎藤自身のものではなく、彼の長男の藤田勉氏が妻のみどりさんに語って記させたものですが、勉にこう言わせるなにかを斎藤一、後の藤田五郎は語ったのではないでしょうか。

私にはただただ、冥福を祈る事しかできませんでした。





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