掲載日:1997/12/23

剣を取っては無敵の男

強いと評判の斎藤一ですが、果たしてその実力がどれくらいのものであったのかは 当時の人々の話等から推測するより他に手はありません。

「誰々よりも強かったのですか?」という質問を頂く事があるのですが、実際のところ わかりません(おいっ!)。強さというのは必ずしも剣の腕だけでは無いような気がするのです。

もちろん 道場で竹刀を振るっても、凄腕であったろうとは想像がつきますが、斎藤一は もっと こう何か計り知れない強さを持っていたのではと私は思うのです。

真剣での勝負における度胸や勘、対峙した相手を倒す殺傷能力、数多の戦で戦い続ける体力と生き残る生命力、そういったものを兼ね備えたある意味 恐ろしい男であったような気がします。

新選組には高名な流派の免許皆伝者が 何人もいましたが、斎藤一はそうではありませんでした。にもかかわらず入隊してすぐに藤堂(北辰一刀流 目録)、沖田(天然理心流 免許皆伝)と並んで最年少幹部(沖田は2才年上の説もありますが)となり、後に三番隊を率い、剣術師範頭をも務めます。これは彼の実力を証明していますし、それを近藤、土方も認めていたということです。

また、話として残されている斬り合いは、斎藤一年表に掲載している 大阪力士との乱闘四条大橋の斬り合い天満屋事件油小路の変などがありますが、なかでも油小路の変で服部武雄を倒したのは斎藤であるという、永倉が後年弟子に語った逸話は(本当ならば)彼の強さを証明していると思います。

また、戊辰戦争(斎藤が戦ったのは鳥羽伏見の戦いから、会津戦まで)でも、斎藤(山口)は常に前線で戦って生き残っていますし、西南戦争でも(銃で撃たれ 負傷はしていますが)彼(この時は藤田)が死ぬ事はありませんでした。

新選組 結成とほぼ同時に入隊し、西南戦争まで戦ったのは斎藤だけです。このことから、一騎当千、百戦錬磨のつわもの揃いの新選組においても、おそらく実戦に身を投じた回数が最も多かったのは彼だったのではないかと推測されます。まさにくぐった修羅場は数知れず。にもかかわらず 彼はついに戦場に倒れる事無く、畳の上で(爆)ほぼ天寿をまっとうしてしまったのです。

斎藤一 恐るべし。

実際に真剣で立ち会った人の話が残っていれば、物凄くリアルなものだったでしょうが、斎藤と立ち会って生きていた人などまずいないハズでしょうから 身近な人の話を載せてみました。また、後半には彼が警官時代に行った剣術大会の記録とそれに関する考察です。

「わし(永倉新八)が下晴眼に構え、斎藤が平晴眼で相対するところ、相手がなかなか攻込まぬ為、一歩出て跳ね上げようとしたところ、するりと躱され、その一瞬突きを取られた。又、ある時は小手を取りにいったところ、抜打ちに先に小手を取られた」などと翁は斎藤の剣を無敵の剣なりと申しておりました

(天満屋で)当時居合の名手といわれた中井庄五郎が、三浦の前で片手をつき、挨拶の様なしぐさよりいきなり片手抜打に来た為、三浦は後方に大きくのけぞったところ、斎藤が一瞬左脇にあった大刀抜打に一刀で相手を倒す手練の技であったとの事です。

永倉、斎藤両氏の真剣斬撃談として刀の鯉口(鞘の口)を切った時より、一瞬でも恐怖を感じた時は死であると云っておられたと申しておりました。


以上 滝上鉄男氏談『幕末史研究第三十号』より

明治23年1月23日 警視庁構内に於ける「春季撃剣会」について

試合出場者総員198名、試合数99組、ほかに特別組合せ試合5組、合計104組。その49番目が藤田五郎(麻布)と渡辺豊(京橋)の組み合わせで、藤田の勝。

対戦相手の渡辺豊について少し触れておきますと、彼は皇宮警察署主催、明治21年3月10日「済寧館撃剣会」に出場し、皇宮警部補 市村生道と対戦しています。この市村がかなりの遣い手であった形跡があることと、この組み合わせの前後に行われたのが いずれも相当の熟練者の対戦であったことから、渡辺豊も相当の遣い手であったことが推測されます。


藤田五郎 撃剣等級四級

警視庁の撃剣等級は二級から七級まで、そのうち四、五、六級は更に上中下に細分されていました(一級は空位)。藤田五郎が四級のどの位であったかは残念ながらわかりません。

藤田五郎 四級が記された資料は明治22年のものなので、この時 藤田五郎は満45才。おそらく体力的には、最盛期を過ぎているのでしょうが、それでも新選組きっての遣い手であった彼が四級とは、さすがは警視庁、上には上がいたもんだ…と素直に感心するほど 私は彼を甘く見てはいません。

彼の強さを語るのに、この等級はあまり意味を持たないもののではないでしょうか。

時代の流れのなかで、剣術はやがてスポーツへと変化して行きます。しかし彼の剣は決してスポーツではなく、初めて剣を手にした時からずっと真剣勝負であったはずです。そして其の勝負にただの一度も敗れずに生きてきた男が、道場で竹刀をもっての等級に何の価値をみいだせるでしょう。

「四級?あぁそうですか、うふふ」ってなもんではないでしょうか(この辺意味不明)。ただし、この四級には(上中下とありますが)かなりの実力者達が名を連ねていますし、富田喜三郎という人の談として「実力はかえって四級上位の者が花形であった。」(「剣士内藤高治」大野熊雄著より)という話もあるので、野に生きる男 藤田五郎としては(なんだそれっ)、ちょっとしっくりくる等級なのではないでしょうか。

つけくわえておきますと、二級は大体 40代後半から50代半ば、三級は大体 30代半ばから40代半ばの人達なので、当時の等級は年齢も大きく絡んでいたのではと思われます。(だとすると 藤田は二級か三級のはず… あぁ、フォローになってねぇ。)また、彼の過去や経歴なども決して無関係では無かったように思うのは私だけではないはず。いかがでしょう?



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