掲載日 1999/1/29

ちゃちゃの狭間 その9


第六十、六十一幕の番外ちゃ

警視庁に奉職している以上、まったく関係ないといってしまえば語弊があるが ―――
本来 藤田は川路直属の秘密機構に所属しているので、武田観柳の一件は彼にとって「どうでもいいこと」であった。

ただそこに抜刀斎が絡んで来た為に、事の顛末を一通り見届けていたに過ぎない。

それでも、ひとつだけ気にかかる事があった。

幕末の頃、齢十五で隠密御庭番衆の御頭となった四乃森蒼紫の名はこの男 ――― 当時、新撰組三番隊組長 斎藤一の耳にも届いていた。

特別手配となっている四乃森蒼紫を捕まえる気など毛頭無い。
「ちょいと見てみたい」ただそれだけで、藤田は神谷道場に足を運んでいるのだ。


一方、藤田が吸った煙草の煙の匂いの残る部屋の中で、古閑は溜め息を吐いて椅子に寄りかかる。

まだ近くに居る、内務卿 暗殺者は きっとまだ東京に居る、そんな気がしてならない。

『神谷道場..... 四乃森蒼紫.....』

古閑は上着を着て立ち上がると、早足に部屋を出ていった。


藤田が神谷道場に着いた時、既に四乃森蒼紫はそこに居た。

そして、高荷恵。 ―― 大方、抜刀斎の行方をおしえろと脅かされているのだろう。

「やれやれ」 藤田は様子をうかがう事もせず、往来を歩いてきた調子でそのまま開け放された門をくぐった。

(そして ちゃんと閉めた.....。)

「抜刀斎なら京都へ行ったぜ。」



どうやら当時の天才隠密の噂もあながち嘘じゃぁないらしい。

人間 一寸やそっとのことでは、あんな目が出来るもんじゃない。

『四乃森蒼紫.....ねぇ.....。』 なかなか 面白そうだぜ。

ブツクサと思案していると、なにやら後ろの方でけたたましい声がするので振り返る。

高荷さんの娘。

随分大きくなったもんだぜ。

「剣さんてぇのは、抜刀斎の事かい」

恵はそれに応えずに、相変わらずこの憎らしい男に罵詈雑言を浴びせ続ける。

恵は今、普段の落ち着きを失っている。

「殺される」
蒼紫に触れられた時、本気でそう思った。
が、予期せぬこの男の登場で助けられた.....。
しかし 同時に剣心の身に降りかかる危険は増えてしまった。

この男の所為だ。

この男なら、いくら憎んだって、何を言ったって構わない。気持なんか考える必要があろうか。
第一、最初からこいつさえ現れなければ.....。

実際に斎藤を此処へよこしたのは内務卿であり、例え斎藤が来なくとも他のものが現れ、そして同じように剣心が旅立ったであろうことは、恵にもわかり過ぎるくらい解かっている。
けれども やり切れない気持は胸に痞え、誰にも言えなかった言葉は行き場所を無くして滞り、身も心も千切れんばかりである。

お門違いと知ってはいても、言葉が息せき切って溢れ出す。

あんたさえいなければ ― 。

言いかけて斎藤の顔を見上げた。

斎藤は黙って突っ立ったまま恵を見ている。
笑うでもなく、厭な顔をするでもなく、困った風でもなく ただ見ている。

何故、この人は私にこんな酷い事を言われながら此処にいるのかしら.... ふと思い付いて恵は口を噤んだ。

すうっと斎藤の左手が伸びたのは無意識だったのだろう、一瞬 恵の頬の辺りで留まり、
けれどそれはどこにも触れる事無く ゆっくりと元の場所におさめられた。

変わりに意地の悪い言葉が投げ出される。

「それで終いか」

平静を取り戻しかけた心が、まるで反動をつけたように逆上する。
頬が熱く上気するのが解かる。

涙が零れ落ち、振り上げられた拳は容赦なく斎藤に向けて降り注ぐ。

二回、三回と叩く度に涙は止まること無く溢れ続ける。

そして今度は躊躇うこと無く斎藤の手が項のあたりに触れ、そのまま引き寄せられたので、斎藤の胸で泣く格好になってしまった。



あの時、この娘は十かそこらだったろうか。

白河撤退後、新撰組の負傷者の殆どは高荷先生の診療所に運ばれた。

そこではそれこそ家族総出で負傷者の治療にあたっていた。

そして年端のいかないこの娘でさえ、怪我人で溢れかえる診療所の中で気丈に立ち働いていた。

が、やっと堪えていたのだろう、ある言葉をきっかけに泣き出してしまった。

「どうして戦うの.......」

涙は大きな滴を成して零れ落ち、あとはもう止まることなく溢れ続けた。

その時の俺に出来ることといえば、ただ思いのままに泣かせてやることぐらいのもので ―――
尤も、それは今でもたいして変わらないが、まさか再びこんな時がこようとは。

「己の正義のため」

あの時心の中で応えた言葉は、今も昔も変わること無く俺の中にいる。

鶴ヶ城が篭城した後も、高荷先生は戦場で治療を続けていた。が、この娘はそこにはいなかった。
診療所にまで戦火が及んだ時に、お城に向かう隣家の人々に一緒に連れて行ってくれるように頼んだのだと先生は言っていた。

「あなたは、何故城に入らなかったのです」

答が聞きたい訳ではなかった。
この人がなんと答えるかなど解かっていた、が、問わずにはいられないことというのがあるものだ。

「あなたは、何故 本隊と共に北へ向かわなかったのですか」

と、逆に俺は問い返された。

「今、ここを離れることなど俺には出来ないからですよ」

「同じですよ、私も」

いつもと変わらない穏やかな口調だった。
しかし見つめ返す俺の目から、それが答になっていないことを覚ると 呟くように言った。

「きっと無事でいてくれると信じている」と.......。

その後再び、戦場で高荷先生に巡り合うことはなかった。



滅多に泣くことの無い自分が、何故こんなに泣いているのだろう。
しかも、今 思い付く限りでは 一番と言って差し支えのない程 腹立たしい男の胸で。

いつかもこんな風に、泣いたことがあった、もう遠い昔、まだ子供の頃に......。

父の診療所に運ばれてきた負傷者の中に見慣れない羽織を着た人達がいた。
服装もそうだが、その言葉遣い等からも会津の者ではないとすぐにわかる。
多くの重傷者がいることと その傷の具合から、かなりの激戦だったであろうことは容易に想像がついた。

幼い恵には治療の手伝いと言うほどのことも出来なかったが、血を拭き取ったり、簡単な止血をしたり、入用のものを運んだりと動き回っていた。
そうでもしていないと 泣き出してしまいそうなくらい、診療所は恐ろしい有り様だった。

そしてふと戸口の脇に静かに立っている背の高い男に目をやり驚いた。
血だらけなのだ。

それにもかかわらず、彼は診療室にも入らずに突っ立っていた。
恵は慌てて駈け寄りその血を拭いてやろうとした。
止血をしなくては。

「傷はどこですか」

すると彼はその場にそぐわないような穏かな声で言った。

「これは、俺の血ではないんだ」

負傷した仲間を背負ってきたのだと彼は付け加えた。

そして彼自身は小さな刀傷一つ負っていないようだった。

恵は先程診療室に運び込まれた重傷の男を思い出した。
出血が酷くて、意識もほとんど無かった。

『助かるといい.....。』

そう思ってその姿を見送ったのだった。

顔を上げるとその青年はまだ恵の顔を見ていた。

自分は酷く不安気な顔をしていたのだろう、心配して気遣うような優しい目だった。

そしてその目を見たら、今まで考えまいとしていたことが急に頭の中に浮かんできた。

彼等は生き延びるために傷を治しに来ているのではないのだ。
戦うために、戦い続けるためにここで治療を受けているのだ。
先程の重傷の男も、命を取り留めたとしても また戦場に赴くのだ。
人の命を奪うために、あるいは自分自身の......。 それでは何のために父はこうして治療を続けているのだろう。
生かすためではないのだろうか。人を生かす、それが医学というものではないのか。

何時の間にかしゃがみこんで、私とほぼ同じ高さにある彼の顔を見る。

この人もいつかは戦場で死んでしまうのだろうか。

急に涙が溢れたのと、彼の手が私の肩に伸びたのは同時だった。

流れる涙に押し出されるように、口にするまいと留めていた言葉が口をつく。

「なぜ、戦うの......」

彼は何も応えずにただ黙っていた。

もしかすると声にならなかったのかもしれない.....よかった、聞かれなかったんだ。

ほっとすると同時に、涙が止まらなくなりただ泣きじゃくってしまった。

そんな私が泣き止むまで、彼はずっとそこで私の肩を抱いてくれていた。

泣いている私を隠すかのように。

それはひどく長い時間のようでもあり、ほんの束の間のようでもあり、そこだけ時間が止まったかのようだった。

そして暫くして泣き止んだ私が謝ると彼は何事も無かったかのように立ち上がり、

「後日また来ることにしよう、ジャマになるといけないからね」

そう言って 父に挨拶をし、診療所を出ていった。

周りの男達はまだ若い彼を隊長と呼び、父はその青年を 山口さんと呼んでいた。

「彼等は新撰組だよ」

後で兄がそう教えてくれた。



遠い昔の事を思い出したら 気持が落ち着いてきたのか、恵は静かに顔を上げた。

と同時にはっとした。

この忌々しい男の顔が、何故か診療所で会った彼の顔と重なったからだ。

そんな筈はない、第一私は彼の顔をハッキリ憶えている訳ではない。

ただ、とても優しい目をしていたことを憶えている。

こんな獣のような目をした男ではなかった......。

途惑いながら自分の顔を見詰めている恵に斎藤が小意地の悪い顔で聞く。

「妙な顔で見るなよ、俺の顔に何かついているか」

慌ててその憎らしい男を突き放すと恵は言った。

「出て行って頂戴。私はこの道場の留守を任されているのよ、あんた達みたいに怪しい人達を入れる訳にはいかないわ。」

「俺は警官だぜ」

斎藤は相変らず薄ら笑いを浮かべている。

何事も無かったかのように。

そして、すっかりいつもの調子に戻った恵は この忌々しい男をここから追い出すべく、また罵詈雑言を浴びせるのだった。


次回につづく


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