掲載日 1999/3/9
神谷道場に向かう途中、古閑は一人の青年とすれ違った。
少年といっても差し支えないような瞳とその顔立ちは、懐かしい男を思い起こさせた。
かつて仲間として戦った青年を ―――
すれ違って暫くした後、何故か抗しきれずに振り返るともうその青年の姿は見えなかった。
まるで風のように行ってしまった。
そう、風のように、まるで.......。
溜め息を吐くと古閑はまた歩きはじめた。
古閑が神谷道場に着いたのは、丁度 藤田が四乃森蒼紫にこれまでの経緯を話している時だった。
『めずらしい.....。』
藤田が長々と喋る姿を古閑は繁々と眺めた、が、そんなことをしに来たのではなかった。
四乃森蒼紫に一瞥をくれると、古閑は道場の周辺の様子を覗った。
自分の討伐のために抜刀斎が京都に向かったことなど、志々雄の情報網を持ってすればすぐに知れるだろう。
蒼紫のような男が今現れれば、志々雄も興味を示すに違いない。
藤田がこうして出向いたのと同様に。
が、奇妙なくらいに何の気配も無い。
ただならぬ気配を発しているとしたらこの男だ。
蒼紫が神谷道場から出てきた。
古閑は充分な距離をおいて同じ方向に歩きはじめた。
この男の後を付けるのは容易なことではない。
やがて街道に続く路に出たが、相変らず怪しい輩の気配はない。
ここまで来てしまえば、もう街中で接触するつもりはないのだろう。
古閑は立ち止まり、そのまま四乃森の姿が見えなくなるまで眺めていた。
今、東京を離れる訳にはいかない。
「さて、と」
今日は藤田を家に帰さんとな。
それにしても.....。
もと来た道を戻りながら、古閑は先程 神谷道場で見た高荷恵の姿を思い浮かべた。
すっかり綺麗になって、もう立派な娘さんだな。
藤田と同様、古閑も会津でまだ幼かった恵と会っている。
気付かなければいいが...。
嘘をつけない男ではない。
しかし...。
心の底からの本気の問いに対しては、それを逸らかすことは決してしない。
藤田はそういう男である。
例え相手が女子供であっても変わりはない。
俺だったら......。
泣き顔を見ないためだけにシラも切れば嘘もつくだろう。
「やれやれ」
溜め息交じりに古閑が呟く。
「厄介な性分だ」
「さて、と」
恵の罵倒など聞こえないかのように、放り投げた煙草を消して斎藤は言った。
「付いてこい」
「.... どういう事?」
恵は思い切り怪訝そうな顔である。
「この時間に、娘をひとりで歩かせる訳にはいくまい」
「あんたみたいな物騒な人に送って頂かなくても結構だわ」
斎藤は既に戸口に向かいかけた足を止め、心外だと言わんばかりの顔で振り返った。
「お前はどうして京都に行かなかった?」
どうしてこの男はこういつも唐突なんだろう。
途惑いながらも毅然とした態度で恵が答える。
「医者としての勤めを果たすためよ」
(上出来だ)
「なら解かるだろう。俺は警官としての勤めを果たすまでだ。ぐだぐだ言わずに付いてこい」
斎藤が返事も待たずにすたすたと歩き出したので、つられて恵も後を追ったが そのままついて行くのはどうも癪に障る。
「なら、その警官さんが、関係も無い者に瀕死の重傷を負わせたのはどうしてかしら」
戸締まりをしながら、やや刺のある口調で斎藤の背中に問いかける。
「あの喧嘩屋か?」
振り返りもしない。
「死んだ訳ではあるまい」
「... な ....。」
「それに」
何本目かの煙草に火を着けながらこともなげに斎藤は言う。
「傷が塞がれば元通りだ」
恵はハッとして手を止める。確かに左之助は重傷だった、しかし手筋などには全く損傷はない、
それどころか傷痕さえも殆ど残らないだろう。
なんて運のいい男なのだろうと思っていた。
すたすたとまた歩き始めた男の背をあらためて見つめる。
この人、得体が知れないわ.....。
恵は仕方なく後について歩き始めた。
こんな時、ひとりで帰らなくともいいのだと思うと少しほっとするのも事実だった。
そしてそれは、夜道の一人歩きが恐い訳では決して無い。
こんな男でも居た方がましなのだと自分に言い聞かせた。
それにしても...。
暫く歩いたところで、依然 数歩先を行く斎藤の後ろ姿を繁々と眺める。
『この人、これで私を送っているつもりなのかしら』
警官の勤めを果たすと言っておきながら自分のことなど全く気にもかけない様子で、悠長に煙草を吸いながら三間も先をすたすたと歩いている。
見れば確かに警官の制服を着てはいるものの、制帽も被らず腰には日本刀を帯びている。
(襟元の釦もかかっていなかったわ......。)
やっぱり不良警官と呼ぶに相応しいわ。
「藤田」
突然の古閑の呼びかけに、振り返ったのは恵だった。
斎藤は前方を向いたまま人知れず笑いを噛み殺している。
「いいところで出くわしたな、古閑」
言い終わったところでようやく斎藤が振り返る。
「俺の代わりにこの娘を送って行ってくれんか」
突然の斎藤の言葉に恵は少々呆気にとられたようだった。
言われた古閑も、また然りである。
「俺はお前を送ってやろうと思ったんだがな」
面食らいながらも古閑が応えた。
「俺を?」
斎藤が怪訝な顔をする。
「京都へ向かう前日くらい早目に家に帰った方がよかろうと思ってな」
「... やっかいな奴だな、お前は」
(お前に言われたかないよ)
「あなたも京都へ?」
恵の表情が変わった。
「ああ」
恵は咄嗟に言葉を発しかけたが、思いとどまった。
この男が素直に聞き入れてくれる訳が無い。
けれど.....。
その葛藤が全て表情に見て取れたのが可笑しかったが、それはまったく顔に出さずに斎藤は言った。
「俺は俺の仕事をするまでだ」
そしてまた煙草を投げ捨てる。
「じゃぁな、頼んだぞ古閑」
そう言って立ち去ろうとする斎藤を古閑が引き止める。
「待て、藤田、どういうことだ」
「俺に送られるのはお好みじゃないらしいからな」
からかうような顔を恵に向けて斎藤が言った。
「険のある目で、そう背中をじろじろ睨まれては叶わん」
恵がふいとそっぽを向く。
何故だろう、今日の自分は仕草が子供っぽいような気がしてならない。
「それに、お前は俺に早く帰ってもらいたいんだろう」
「・・・・・・・・・。」(こっ、こいつめ)
「お前に云われずともそうする」
そう言って、今度こそ斎藤は行ってしまった。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
残された二人は、暫し呆然とその後ろ姿を見送る。
「どちらまでですか」
気を取り直した古閑が、真っ直ぐに恵に向き直り訊ねた。
「あ....小国診療所です」
「それでは、藤田に変わって本官がお送りします」
「申し訳ありません、お願いします」
見るからに人の良さそうな古閑を見て恵は安堵の表情を浮かべる。
古閑が笑って言った。
「申し訳ないのはこちら、いや、藤田ですよ」
どちらからともなく歩き始める。
「あの人、いつもああなんですか」
恵はやや(というよりは心底)呆れたような顔をしている。
「うむ。そう、いつも.....生まれつきでしょうな、あれは」
「大変でしょうね」
言われて古閑が立ち止まり、自分にそれを聞かんでくれという顔をしてみせた。
恵が笑った。
先刻、神谷道場で見かけた時の思いつめたような表情は見受けられない。
その笑顔を見ただけで、古閑はいつかの瞳の恩返しができたような気がした。
自分を心配して心の底から祈るようなあの瞳への......。
目を閉じて息を吸い込む。
まだ薄ら寒い初夏の夜気が、あの真夏の日の空気を含んでいるかのように薫る。
古閑は微笑みを返すと、また歩き始めた。
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