掲載日 1998/11/13
ちゃちゃの狭間 その7
第六十二幕の番外ちゃ
大久保卿暗殺事件のその夜........。
藤田と古閑、それぞれつい四半時ほど前に署に戻ってきたのだが、机の上には紙片が山のように重なっている。
大久保卿暗殺の真犯人は志々雄真実の手の者の仕業に間違いない。
どれもこれもそれを裏付ける報告ばかりであるが、肝心の人物を特定できない。
殺害の現場に赴き、実際に大久保の遺体を確認したが、状況から見て犯人は誰にも気付かれずに走る馬車に乗り込み、大久保を殺害し去って行ったとしか考えられない。
紀尾井坂にはその時間、何人もの通行人がいた。
だが、誰一人として馬車を追うモノの姿など見ていないのである。
「志々雄一派には軽業師でもいるようだな」
古閑が溜め息をつきながら言う。
そこへ一人の部下が報告に来た。
「緋村抜刀斎が神谷道場を出ました」
「そうか、ご苦労」
言いながら藤田は古閑を見て薄く笑ったが、古閑はそれには応えなかった。
「じゃ、俺は行くぜ」
扉に向かう藤田の背中に古閑が問う。
「お前、家には寄らんつもりか?」
藤田は立ち止まりそれに沈黙で応える。
「姫様は気の毒だな」
姫様 ――― この妙な呼び方は、古閑が時尾に初めて会津で会って以来のものである。
藤田は厭な顔をするが、古閑はお構いなしである。
「後は頼む」
事後処理のことを言っているのだろうか、それとも.....。
低く穏やかな声で、振り向きもせずにそれだけ言うと藤田はまた歩きはじめた。
古閑は黙って彼の背中を目で追う。
この男の背中はいろいろなことを語るのだな。
幕末以来、ずっとこの背中を見続けてきた。
年若く、無口で穏やかでありながら得体の知れない強かさを持つ男。
戦場においてそれは鬼神のように頼もしく、力強く、そして恐ろしかった。
だが、明治になり こうして相棒としてやっていくうちに、その背中は他のことも語るようになった。
というよりは、自分が解かるようになったと言うのが正しいのだろうか。
「藤田、俺も其処まで行く。それと横浜まで馬車を手配した方がいいだろう」
暗く人通りの無い夜道。
小柄な男が一人歩いてくる。
「神谷の娘に別れは言って来たか」
普段なら口にしそうにないこんな言葉を、ついと言ってしまったのは、出掛けの古閑の問いかけの所為だろうか。
だが、その男には通じずに思い切り嫌な顔で返されてしまった.....。
「振られちまったなぁ」古閑がこちらに歩きながら言う。
「フン。まぁ、お陰でこっちもいくつかの厄介ごとを始末できる」
「厄介ごと?」
「せっかく置いてきた鍋が、わざわざ鴨を追いかけて行くのを止めておかんとな」
(冗談を言っているのではないらしい.....。)
「..... あぁ、確かに他にも葱やら豆腐やらいろいろくっ付いて行きそうだな」
古閑はニヤニヤ笑いながら応えた。
『しかし、訳わからん奴.....。』古閑心の声。
次回につづく
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