掲載日 1997/3/5

不定期連載 ちゃちゃの狭間 その5


第五十五幕の番外ちゃちゃ

狼は狼

新撰組は新撰組

そして、人斬りは人斬り なあ抜刀斎…


五月の初旬ともなれば、夜でも大分暖かく、時折 吹く風も肌に心地良い。

だが身体に纏わりつく血の匂いは、夜風に紛れはしない。

不自然な程静かな蒼い月のもと、藤田は一人ゆっくりと歩いていた。

まだ然程 遅い時間ではないが、行き交う人はひとりも無い。
すれ違う人が居たとしたら、たとい剣客ではなくとも この男の発する尋常ではない気配に気付くだろう。

決め事と云うほどのことではない。
家庭を持ってからというもの藤田は、あからさまに血の匂いを漂わせたまま家に帰ることはなかった。

藤田の家内 時尾は、戊辰戦で鶴ヶ城篭城の際に、数え切れないほどの怪我人の世話をし、落城後は山程の屍を―――
長いこと放置され、見るも無残に腐り果てた骸のひとつひとつを葬る手伝いをした。

ちっとやそっとのことでは、狼狽えさせることなど出来ない気丈な女である。

が、だからこそ尚更、当時を思い起こさせるようなことなど出来るだけ無い様にしてやりたい。

尤も 藤田は意識してそう努めようなどと思うような類の男ではない。
何時の間にか ――― 無意識のうちにそうしているに過ぎない。

ましてや今夜は、藤田自身が昂ぶりを抑え切れないで――――
いや、正確に言えば それを敢えて楽しんでいるようでもあるが…

それはあくまでも静かで、穏やかな、それでいて 頗(すこぶ)る凶悪な感情であった。

戦いの中に生きる男

明治となった今でもそれは変わりようが無かった。

流れていくのは時間であり、変わっていくのは世の中である。

それに合せて己を変えて生きてゆくなど、到底出来ない男であった。



『比紅ゑ』では古閑が女将の酌で酒を飲んでいた。

普段とは違って、無口な古閑に向かって彼女は

「いやだ、藤田さんみたい。」と言って本気で笑った。

『俺だってたまには…』(古閑 心の声)

そこへ藤田が、仲居に案内されて入って来た。
その姿を見て女将が少々 驚いた。

「まあっ、お怪我を…」

それどころではなく よく見ると藤田の制服は、釦がいくつか取れてしまっている上によれよれで、更に返り血やら(道場の壁に突っ込んだ時の)自らのものやらで、血飛沫まみれであった。

小さな料亭とはいえ、他にお客がいる。
それを気遣い、勝手口から仲居に案内してもらったのだが、座敷の明かりのもとに立つと随分と物騒な姿であった。

「その姿で酒が飲めるのは此処ぐらいなもんだろう。」

古閑は笑っているが、女将は慌てて立ち上がろうとした。

「いや、たいしたことじゃあないんだ。(ちょっとぶつけただけだし…)それより、こんな姿で申し訳ない。」

藤田が細い目を更に細くして、すまなそうにそう言うと、女将は笑って「ではお酒の用意を。」と席を立った。

『相変わらず女には…』(無口な古閑 心の声)

「なんだ。」

何か言いた気な古閑の顔を、訝し気に見て藤田が言った。

「いや、別に。」

そうは言ったものの相変らず古閑はニヤニヤしている。

暫くして女将が自ら酒を運んできた、後ろに仲居を二人ほど引き連れて、そちらの方は湯の入った桶やら手拭い、軟膏、果ては包帯まで持たされている。

「それは…。」藤田は少し困ったような顔をしている。
(もちろん 古閑は楽しそうに笑っている。)

「酒は血の巡りをよくするって言うじゃないですか。飲むなって言うのも酷でしょうし。さあ、観念して手当てくらいさせてくださいな、ね。」

物言いは、はきはきとキツイが女将は本当に心配そうな顔をしていたので、藤田は仕方なく観念した。

「ああ、じゃ その手拭いを貸してください。この血は… 」
この血は俺の血ではない。
が、藤田はそのひと言を口にしなかった。

女将はそれを察し、早合点をしたのが少し照れくさいのか、黙って手拭いを湯に浸して絞ると藤田に手渡した。

「すみません。」藤田はそれを受け取ると、顔やら手やらを拭き始めた。

女将はその様子をじっと見ている。

「どうも。」

藤田がそう言って、手拭いを返すと 代わりに女将はにっこりと笑って軟膏を差し出した。
藤田が不思議そうに彼女の顔を見る。

「でも、ほら、その おでこ。それはどう見ても…、ね。」
江戸っ子特有の、憎めない茶目っ気ってぇやつである。

古閑が大笑いをしたのは言うまでもない。


その晩二人は遅くまで飲んだ。

そして普段は、二人が揃うと席を外す女将が、今夜は最後まで二人の酒の相手をした。

その晩遅くに藤田が帰宅した際、時尾はいつものように玄関口で出迎えた。

「まあっ、お怪我を…。」

その言葉を聞いて思わず藤田は笑った。

「いや、たいしたことじゃあないんだ。」

そして時尾も、薬箱やら何やらを引っ張り出してくるに違いなかった。


次回につづく


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