掲載日:1997/07/09 最終更新日:1997/08/07 改 3 版 |
藤田五郎氏の晩年 | |
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眼光鋭く 無口也 | 明治24年以降 |
どこから晩年にするかは迷い所ですが、とりあえずここでは 警視庁以降を取り上げましょう。(今後 変更の可能性もあり)また、西南戦争の項同様、資料がかなり多岐にわたっているので とりあえず先に3冊分をまとめたものがこれです。他の資料は これにどんどん足したり、修正したりしていく形を取りたいと思います。
藤田五郎が警視庁を警部で辞めたのは 明治24年4月2日、47才の時です。この頃の警視庁では大規模なリストラを敢行していました。でも 同じ日付で 東京師範学校附属東京教育博物館に看守としてとなっているので 準備は万端というところでしょう。
この博物館は、東京師範学校(現在の教育大学)の附属機関です。どういう物であったのか本郷区史に載っていたので、別ページに抜粋します。(附属東京教育博物館とは?)
時尾さんも同じ頃、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)の寄宿舎の舎監をしていました。真砂町の自宅から両方共そんなに遠くないから、2人仲良く歩いて通ってたかも。(但し時尾さんの勤めた時期に関しては、確認できてないので もしかしたら彼女はこの頃はまだ勤めていなかったかも) 長男、勉さんのお嫁さんになった西野みどりさんは女子高等師範学校に通っている頃、時尾さんに見初められたそうですが、時尾さんは舎監というだけではなく、生徒さん達を自宅に住まわせて面倒を見たりしていたそうで、その中にみどりさんもいたという話もあります。
藤田五郎は明治32年2月27日まで約8年間、高等師範学校に奉職しますが、その間に「格別勤勉」の賞として5回も特別給与を受けています。ものすごく誠実に、まじめに働くお姿が浮かんでくるじゃありませんか。頼まれた訳でもないのに、雨の日などに人力車の交通整理をしていたとか、微笑ましい話もありますし。
高等師範学校を希望退職した彼はその後、女子高等師範学校に奉職します。今度こそ時尾さんと一緒のはず。職員録に庶務係兼会計係 勲七等 藤田五郎とあるそうです(爆)。会計係も兼ねていたとは・・・。計算が合わなくて居残りしたりとかしたんでしょうか(スーパーのレジじゃないって)。そろばんを ぽち、ぽち、っと弾く一(決してちゃっちゃとはしていなかったと思う)。この職員録のコピーを手に入れるべく 現在思案中ですが、藤田五郎さんはここで明治42年まで奉職したみたいです。(ちょっとまだ自信なし)
<あれやこれや> 元新選組隊士、近藤芳助と手紙のやり取りをしたらしい。
斎藤一 東京之人 目下藤田五郎と改め 六十歳位互に信書の交付せり (原文のカタカナを平仮名に直しました。) 藤田実氏曰く「酒は大へん強く、私が子供の頃には祖父愛用の五升徳利が床の間に飾ってあった(後略)」えぇっ、五升徳利!それは既に徳利というより瓶では・・・。誰がお酌するのかしら(爆)。
上にもあるように、大へん酒が好きで、普段は無口だが義弟の盛之輔や、山川健二郎などと酒を飲むと、戊辰戦争の話をして悲憤慷慨(ヒフンコウガイ)するのが常だったそう。
その姿について 当時の方のご意見を、いろいろまとめてみました。背が高く痩せて見え、たいそう無口で、いかにもいかめしい感じ、更に 眉毛がふさふさとして、鋭い眼がけいけいと光っていた等々。
武人らしくきちんとした生活態度で、帯を結ぶときも、必ずきちんと結び、決してぐるぐる巻きにしたり、だらしない巻き方はしなかったそう。
どんなに暑くても 決して片肌脱ぎになったり、手拭いを首に巻いたりせず、履き物をはく時も つっかけたり、ずったりせずにきちんとはいていた。
座る時は膝を揃えて正座をし、決してあぐらをかいたり、横座り(爆)などもしなかった。
下帯は毎日取り替え、清潔なものを使用した。しかもただ洗濯をしたものではなく、真っ白に洗ってのりをつけ、両掌ではさんでよくたたき、しわをのばして天日に干し上げて、まるでアイロンでもかけたようなものだったそう。おそれいりました。
今日はここまでにします。このページもこれからどんどん更新されます。
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