ここでは、いろいろな人が語った一さんをご紹介します。
実際に一さんにあったことのある方の語る一さんのあれこれ。
私の家へ泊ったのは、芹沢鴨(以下省略)の十三人ですが、南部亀二郎さんのところに泊っていた新見錦、粕谷新五郎の二人と、斎藤一というのが殆ど此方へ入浸って、毎晩雑魚寝をしていたという話でした。十三人と斎藤一は朧ろげながら記憶はありますが、新見と粕谷というのはまるきり覚えがありません。
八木為三郎老人 談 (新選組が壬生で屯所にしていた八木邸の方です<当時は子供>)姑みどりの話によると、この方(高嶋秀夫)のお邸には立派な倉があってそのなかに刀剣類、美術品など、ぎっしり詰まっていまして、いつも鍵が掛けられてありましたそうですが、五郎だけはひとり勝手に出入することを許されていて、刀剣の鑑定がうまかったせいか、よく目利きや、手入れなどを頼まれていたそうです。
夏子さん 談 (藤田實氏夫人)このにほひこれのつくりと老人は 古きつるぎにひとりこちつつ
佐川泰子さん (佐川直諒夫人)歌集 「しのぶぐさ」のなかで五郎伯父はふさふさとした長い眉毛で、眼光はけいけいとして鋭く光り、無口で体の大きくみえる方でした。年に一回は福島へ必ず墓参に帰り、父盛之輔のもとへはよく泊りに来ては、二人で年中、お酒を呑んでは戊辰戦争の話をして、ヒフンコウガイしておりました。親せきの男の子は皆、この五郎伯父に剣道を教わりました。新選組に入っていたことは知っていました。警視庁におりました頃、皇宮警察の仕事もやっておりまして、昭憲皇太后の護衛長を仰せつかったことがありまして、よくその話を伯父からききました。『あのような美しい方はめったに無い』とお美しさを讃えておりました。時尾伯母は照姫様付の祐筆をしておりましただけに、厳格で、やかましくて、子供心に怖いナアという印象を受けました。小柄でぽっちゃりした感じでした。
小林栃子さん 談 (高木盛之輔の六女)(山崎蒸について)棒をやったのは見ませんが、長巻といって、柄の短かい薙刀のようなものが上手で、新選組の道場で、これを振り廻して暴れているのを見たことがあります。この山崎の相手には播州明石の浪人で、大変近藤の気に入りだった斎藤一がよく立向っていました。斎藤は流儀は何んですか知りませんが、実にいい腕でした。新選組の中では先ず五本の指に入る人でした。
八木為三郎老人 談藤田五郎さまは、よく私の実家高嶺家に遊びにみえておられました。御酒(ごしゅ)がお好きで、おいでになると必ず御酒を差し上げておりました。大そう無口で、お背の高いやせた方で、いかにもいかめしい、それらしいふうにお見受けいたしました。
高嶺敬子さん 談 (会津の天才学者といわれた高嶺秀夫氏のご令嬢)当時、父は女子高等師範学校の校長をしておりました。五郎さまは、その女高師で、校内取り締まりのようなお仕事をなさっていましたが、雨が降る日など、生徒たちを迎えにくるお抱えの人力車の車夫たちが、一せいに校門の中までずっと入って参りますので、混雑いたします。そんな折に、うまく私たちと車夫がゆき合えるように、指図しておられました。
高嶺敬子さん 談時尾さまと私の祖母幾乃は、仲良しでして、よくお遊びにおいでになりました。(中略) 時尾さまは、その頃、たしかおつむはこう切り下げにあそばしておられたと記憶しております。
高嶺敬子さん 談母が亡くなりました時には、時尾さまがいろいろと私宅へ来て下さり、お助け下さいましたこと、覚えております。時尾さまは余りお身大きくない小柄な方で、いかにも会津の婦人という感じで、よく榎坂の会津さま(松平家)のお邸にお出入りをされておられ、(中略)いろいろとおつくしになっておられました。 本郷真砂町の藤田さまのお宅に、私や私の姉は祖母に連れられて、よくお伺い致しました。通りから石の階段を下りていったのを覚えております。
高嶺敬子さん 談