掲載日:1997/06/16

戊辰戦争
そして更なる戦いの日々慶応4年1月3日から明治2年5月


慶応4年1月3日 開戦 −鳥羽伏見の戦い−

薩摩討つべしと、淀の陣営を発した幕府軍が鳥羽口、伏見口両方向から入京しようと押し寄せましたが、既に薩長軍は迎撃態勢を整えており、薩摩軍が幕府軍に発砲したのをきっかけに、奉行所への砲撃が始まり、鳥羽伏見の戦いが幕を開けました。しかし近代兵器の前に新選組は得意の白刃戦に持ち込むことができず、やがて奉行所が炎上し、新選組を含む幕府軍は淀方面に退却します。

5日 橋本に退却

この日の激戦で井上源三郎、山崎蒸ら、隊士14人が戦死。

6日 大阪に退く

隊士 4人が戦死。

7日 徳川慶喜江戸へ

なんとこの日、幕府軍の総大将である慶喜が、いきなり松平容保らを小脇に抱えるようにして無理矢理江戸に逃げてしまいました。大将に見捨てられた幕府軍はバラバラになり大騒ぎです。

9日 順動丸、富士山丸(主に怪我人)に乗船し江戸に帰還

12日 順動丸品川に着く

15日 富士山丸品川に着く

富士山丸が遅れたのは、途中 横浜で重傷の隊士22人を下船させたため。品川に到着後、近藤、土方らは旅館「釜屋」で 先着の隊士達と落ち合った。その後、近藤は沖田を伴って幕府典医頭 松本良順の医学所へ赴く。19日に山口次郎が神田和泉橋の医学所で単独の治療を受けているという記録があるので、鳥羽伏見で多少の傷を負ったと思われます。

2月15日〜25日 上野大慈院の徳川慶喜を警護

3月1日 甲陽鎮撫隊として鍛冶橋の屯所を出発

山口次郎も甲陽鎮撫隊に加わり一緒に出発していますが、そのときの姿は、副長助勤クラスの幹部たちは直参旗本の身分を与えられ、青だたき裏金輪抜けの陣笠姿で堂々としたものだったそうです。けれどその後会津に至るまで、山口次郎のはっきりとした足跡はいまいち不明です。

5日 甲陽鎮撫隊勝沼に到着

しかし時既に遅く甲府城は無血開城し、新政府群の手に落ちた後でした。甲陽鎮撫隊も勝沼で小規模な戦いをしますが、圧倒的な兵力の違いから敗れ江戸に敗走します。

11日 永倉新八、原田左之助 離隊

敗走後隊士達は、浅草今戸で落ち合いましたが、ここで永倉と原田が、近藤との意見の対立から分裂してしまいます。その場に山口次郎が居たかどうかは不明ですが、私が思うに彼は甲府から江戸ではなく直接会津の方に敗走したのではないでしょうか。また、この頃新選組(甲陽鎮撫隊はすでに無くなっているので)は負傷した隊士 20名程を、会津に直行させている。しかし、伍長の久米部正親がリーダーとして率いたそうなので、ここにも山口次郎は含まれていないようです。(一人で行ったのか?)

13日 千住五兵衛新田の金子宅に先発した新選組隊士到着(14日 近藤勇、15日土方歳三が到着)

ここには 3月末まで 200名程が駐屯する。滞在した隊士も おおよそ判明しているらしいが、かつての副長助勤クラスの名前を見つけられないそうなので、やはり山口次郎は居なかったと思われる。

4月2日 下総流山着陣

4月3日 新政府群に流山を包囲され、近藤勇投降

4月4日

近藤が出頭した後、隊士達は武器を差し出し降参していたが、官軍が引き上げた後に、約150名が会津に向かった。引率したのは安富才介、従って山口次郎はやっぱりここにも居ない模様・・・?

4月5日 土方歳三 江戸に戻り、勝海舟と会談

土方のもとへは、島田魁 他数名の隊士が軍資金を運び合流。

4月11日 江戸城無血開城

4月19日 宇都宮城陥落

23日に攻防戦を展開しますが、ここで土方が負傷したため今市に下ります。

4月25日 近藤勇、板橋で斬首

4月29日 土方歳三、会津若松に到着

この時点で山口次郎は、既に会津に先着していたようです。土方が足の指を負傷していたために、山口次郎が隊長として新選組を率いることになります。
「吾々隊は元斎藤四郎(斎藤一)と申す古参人、仮に隊長となり」
『近藤芳助書簡』
最古参(サイコさんではない)の幹部であるため当然の成り行きと思えますが、会津において戦功があり昇任したという記述もあります。(中島登の「新選組隊士絵巻」)だとすると彼は既に会津で戦っていたことになります。

閏4月5日 会津新選組隊長として白河口出陣に際して松平容保に拝謁

「 新選組隊長山口二郎を被り、当隊百三十余人を引きて白河方面へ出張の命下る。ここにおいて閏四月五日、当隊会津公に謁す。」
『中島登覚書』

6日 白河に出立

猪苗代湖畔の赤津宿に宿陣、翌7日以降勢至堂峠の上り口に位置する御代宿に滞陣。

20日 白河城を攻略

旧幕府軍と会津藩兵によりほとんど抵抗を受けずに白河城を攻略します。御代を出陣した新選組は22日に白河城下に到着しました。さらに翌23日、城から約3キロ程南に位置する白坂に進出し、敵の襲来に備えての陣地構築にあたりました。

25日 白河城攻防戦

新政府軍が攻撃を仕掛けてきたため、白河城攻防戦の火蓋が切って落とされました。新選組が布陣した白坂口は激戦地でした。この時の戦いについて『会津戊辰戦史』では新選組隊長山口次郎の名を度々挙げて、その勇敢無比なる戦い振りを詳細に記録しています。その結果、装備面では圧倒的に有利な新政府軍も、兵力が及ばず約70人に及ぶ死傷者をだして退却します。この戦死者の中には新選組を離脱して御陵衛士に参加し、その後薩摩藩の兵になっていた清原清も含まれているそうです。

5月1日 新政府軍白河城を攻略

一度は攻防戦に勝ち守り切ったものの、ついにこの日、白河城は新政府軍の手に堕ちます。その後も度重なる攻撃を仕掛けますが、白河城の守りは強化される一方で、その上新政府軍の近代兵器の前に破れ、新選組は勢至堂峠に退きます。

7月初旬 土方歳三戦線復帰

復帰した土方歳三は、旧幕府軍の参謀であり伝習第一大隊などを指揮するため、新選組の直接の指揮は山口次郎がとっていました。

8月19日 母成峠へ

「慶応4年8月18日、新選組雉子小屋村、第一分隊須賀野村に陣す」と『谷口兵衛四郎日記』にあるそうです。雉子小屋とは高森木地小屋のことと思われます。ここでは重要な会話が交されます。できるだけ忠実に再現したいので、あえて私の言葉をいれずに本からそのまま抜粋します
この陣に大鳥圭介がやってきて、なにやら作戦上の話で、斎藤一こと山口二郎と談合したというが、小森一貫斎(会津藩士)がやってきて、「新選組、第一分隊は勝軍山(母成)に援兵すべし」と告げる。一同は了承した。
ところが秋月登之助がやってきて「今すぐに土方始め我が隊は、仙台へ行くことを決めた」と言いだす。大変な騒ぎだったろう。
土方は勝軍山一戦を目前にしているから、これがすんだら仙台へ行くからと返事している。そこで秋月は先に行くからと再会を約して猪苗代へ行く。そこにまたやってきたのが、仙台藩の塩松内蔵太である。「前々から仙台へ行くと約束したんだから実行してほしい。仙台藩の情勢も追々切迫してきて大変なんだ」としつこく迫った。ここで、山口二郎とナンダカンダとやり合っている。
「勝軍山の一戦を控えて大事な時に、何をいうんだ。会津藩との約束でこの一戦に向かう。冗談じゃない」というのが山口。塩松も喰い下がる。必死である。
「先約が先だろう。仙台行きを実行しろ」結局、勝軍山戦ののち、仙台にゆくことを山口は明言し、確約することになる。塩松は「もしその約束を破ったら、俺は藩公に申し訳ないから切腹して死ぬぞ」などとおどしている。本心だったろう。
ついに塩松は秋月と共に先行する決心を固め、土方付属の田村銀次郎、玉置良造、市村銀之介、上田馬之介その他、病兵らを連れて富田要蔵、栗田重造らと出立している。
『史跡探訪 新選組残照』赤間倭子著
秋月登之助は伝習第一大隊の隊長です。とにもかくにも新選組は母成峠を守ることになります。

21日 母成峠の戦い

母成峠の守備には大鳥、土方以下の旧幕脱走軍約 800名がつきました。けれども新政府軍が2600名もの兵力をもって総攻撃を仕掛けてきたため、圧倒的な兵力、武器の差などから旧幕脱走軍は敗走を余儀なくされ散乱します。そこで山口次郎はひとり隊とはぐれてしまい山中をさまよいます。(隊長・・・。)
二本松藩士黒田伝太が、母成の敗戦で2月21日退却の折、「自分は部下を12、3人ほどつれていたが、山中で山口二郎が一人ぽっちで敵の追撃をさけて逃げているのに出っくわした。一緒に会津城下に行こうといって一緒になったが、敵の追撃が激しく、ついにけわしい山河を跋渉し、岩石峨々として猿しか登れない断崖絶壁をよじ登る破目になった。下は川で、一生懸命葛(かずら)にすがってよじ登ったが、敵に狙いうちされ、6、7名死に、自分は九死に一生を得て助かった。」と語っているのが、二本松藩史にある。
『史跡探訪 新選組残照』赤間倭子著
気付いてみると山口の姿は無かったそうですので、きっと皆命懸けで(あたりまえか)他の人に構う余裕など無かったのでしょうね。山口次郎も猿に負けない運動神経を発揮して、九死に一生を得、高森木地小屋にやっとたどり着きます。そこで傷を負い足手まといになるのを怖れて自決しようとした大島寅雄を山口次郎と中島登が必死にとめてなんとか助け逃がしたと『谷口兵衛四郎日記』にあるそうです。山口と中島は味方を逃がし殿(しんがり)としてそこに残っています。『中島登覚書』によると、その夜土方、山口以下新選組隊士は猪苗代で合流し、会津藩軍事方と協議の上、土方は一部の隊士たちと共に十六橋から若松に入り、明くる22日山口次郎は残った隊士たちとともに日橋から若松に入ります。

22日 土方、山口次郎ともに前会津藩主 松平容保、前桑名藩主松平定敬兄弟と滝沢峠へと出陣

23日 米沢口塩川村へ転陣

官軍が大挙して押し寄せたために新選組も会津若松城に入ろうとしますが、既に篭城して門を閉ざしていた上に、敵の攻撃が激しかったために入城できずに塩川村に転陣します。前桑名藩主 松平定敬は兄容保の命により援軍要請のため米沢に向かいます。新選組本隊と別行動をとっていた土方歳三は、数名の隊士を連れてそれに同行します。土方の仙台行きは予定通りの行動ですが、それを伝えられた山口次郎は大鳥圭介にこう語ったそうです。
吾ら会津藩に来り国の諸方にて戦により、遂に今、盟士(隊士)多く戦死し僅かに十四人のみ残る。さればこれをのちに起こさん志あれども、一たび会津へ来りたれば今落城せんとするを見て、志を捨て去るは誠の義にあらずと知る。もっとも仙藩(仙台藩)塩松内蔵太に約す将軍山(母成峠)一戦の後、仙行(仙台行き)のはずたれどもかかる事件となりては止むなし、よって吾輩(山口次郎)後顧を思わず隊名と共にここに死なん。
『谷口兵衛四郎日記』
そして山口は新選組隊士や旧幕兵を預かり 如来堂に布陣します。

9月4日 如来堂にて残留部隊壊滅

この日、如来堂西北の高久村で戦が始まり、島田魁、中島登など数名の隊士が応援に駆けつけたところ、如来堂に守備として残っていた少数の留守隊に敵が攻撃を仕掛けてきました。数十人の敵に囲まれもはや絶望的な戦況でした。高久村に応援に向かった隊士たちは、残留部隊は全員討死したものと思い(中島登も覚書でそう書き残しています。)土方の後を追うべく仙台に向かいます。けれど、驚いたことに少なくとも 隊長の山口次郎をはじめ七人が血路を開き脱出してます。逃げ延びた隊士のうち久米部正親、池田七三郎、吉田俊太郎、河合鉄五郎は会津を脱出し、水戸城奪還作戦に参加した後、仙台方面に逃走をはかりましたが敵に捕まり投降します。けれどその後も山口はたったひとり(他にも隊士が一人いたという噂もありますが)なおも 会津に留まり、高田付近でゲリラ戦を続けます。闇に乗じてひたすら敵を斬る。この時点でおそらく彼は、自分が生き残ることなど望んでいなかったでしょう。

22日 鶴ヶ城落城

ここで、斎藤一あらため 山口次郎の戊辰戦争は終わります。しかし、彼がゲリラ戦を行っていた会津高田では、猛将 佐川官兵衛の隊が戦っていました、山口次郎もこの中で戦っているはずです。官兵衛の部隊は鶴ヶ城落城後、再三の説得にも応じず抗戦を続けます。そしてついに藩主の親書によってようやく彼らが降伏したのは10月8日の事でした。この時、鬼官兵衛(斎藤も鬼斎藤と呼ばれていたらしいが)と呼ばれた猛将は号泣きしたと言われています。

また、ご存知のように戊辰戦争はこのあとも続き、 新選組は翌年5月11日、函館で土方歳三が戦死し、新選組最後の隊長となった相馬主計が降伏するまで戦い続けました。


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