半生を過ごした町 −本郷 真砂町−

30番地空地
1997年当時、空き地になってた区画
30番地周辺
左の写真の向かって左の塀沿いから

30番地 本郷の真砂町は、ご存知の通り藤田五郎氏が時尾さんと結婚した後に世帯をかまえ、暮らし、その人生を終えた家のあったところです。

彼の家があったのは、戸籍によると真砂町の30番地、今では住所が変わってしまっているのですが、昔の地図を探し出して調べてみたところ、場所的には現在の本郷4丁目14番地の辺りです。ただ、当時30番地であったところは割と大きな区画なので、ここに藤田家がありました、と断定はできません。古くからお住まいの方に伺ってみれば何か判るかもしれませんが、それはちょっとできませんでした…。

真砂町と言う名前の由来は、「濱の真砂の涯りなき繁栄を将来に期せるものであらう」と本郷区史にあり、明治2年に命名されたそうです。しかし、昭和40年には本郷4丁目と改名され、現在に至っています。ただ、地元の方々の真砂町という名への想いは深く、今でも町の至る所で真砂町という表記が見られますし、真砂坂、真砂小学校などというようにその名を残した所がたくさんあります。

文京区の本郷は、文学・教育の町とも呼ばれるように、明治の頃からたくさんの文化人が好んで居を構えたところです。泉鏡花の「婦系図」に出てくる恩師 酒井先生は、真砂町に住んでいて 真砂町の先生と呼ばれ、と言う設定ですね。それから私は知らなかったんですが、姿三四郎 VS 源三郎の対決の舞台も真砂町だそうです(立て札にそう書いてあった)。そぉんなところに藤田五郎史も住んでいました。

考えてみると、「なにも持たない斎藤一」が、初めて護るべき妻や子供達といった家族を持って、夫として、父として生きた場所なのですね。新選組 斎藤一時代に関するものとは違い、藤田五郎になってからの彼は、非常に誠実で勤勉な人であったという記述が多いですし(無口なのは 相変らずだったようですが)、実際にそうであったろうと思われる記録もあります。

住むところも、そしてその名前さえも、くるくると変えて生きてきた彼が(本人の望んだことでは無かった場合もあるでしょうが)、藤田五郎と言う名とともにずっと暮らしつづけたこの真砂町(本郷4丁目)。

きっとこの町には、そんな彼が心休まる何かがあったのだと、そして それは今も変わらずに息づいているのでは、と、この町を歩いているといつもそんな気になってしまう私です。

(1997年8月記)

30番地建物
2001年夏撮影時の元空き地
建物正面
春日通りからみた同建物

この2枚の写真が2001年の夏に撮影したものです、左のものはページの最初にある1997年の写真とほぼ同じところから撮影しています。町内会の掲示板(新しくなっていますが)、電信柱、交通標識などを見比べて頂けるとはっきりわかるかと思います。この時はまだ工事中でどんな建物かわかりませんでしたが、個人の民家ではなかったので撮影させて頂きました。割と大きな建物で、元空き地があった部分ほぼ全域と春日通りに面した部分が一角を除きつながっています。時は流れ、形のあるものは変わってゆくと言うことですね。

(2001年10月追記)



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