掲載日:1998/2/8

「夢録」について考える

by熟睡C太


新選組副長助勤・斎藤一の口述を記録した、「夢録」という書物があった、と子母沢寛は「新選組遺聞」で伝えている。
斎藤一(藤田五郎)は、平素きわめて無口で身ごなしに隙がなく、また維新後も誰ともしれぬ者の襲撃を受けることがあったという。
こうした用心深い男が、自分の意思で回想録を残すとは考えにくいが、ときおり語った言葉を誰かがひそかに書き留めておくことがあったかもしれない、とかすかに期待する。


その「夢録」とは、「遺聞」の、「原田左之助」の章によればこんな本だ。
「新選組一流の剣士であった播州明石の浪人副長助勤斎藤一、後の山口次郎老人の口述したものだといわれる述者不明の「夢録」というにある。」
しかし、三部作中に「夢録」が登場するのは、ただ一個所だけだ。
さらに、子母沢寛以外に、同書を見た、あるいは存在したと証言している著者もいない。
「夢録」は子母沢寛の完全なフィクションという可能性もある、ということだ。


ところで、この「山口次郎老人」という言い方がちょっとひっかかる。
斎藤一が「藤田五郎」として従軍した西南戦争(明治10年=西暦1877年)は、弘化元年(1844年)生まれの彼が33才の時に起こっている。
以後、大正4年(1915年)に71才で死去するまで、彼は「藤田五郎」のはずだ。
子母沢寛が「始末記」「遺聞」「物語」から成る、いわゆる「新選組三部作」を発表した昭和3年(戊辰戦争60周年)から6年には、もちろんすでに故人である。
なぜ子母沢寛は、斎藤の晩年の名前を使わずに、わざわざ明治元年にだけ使われた「山口次郎」をここで持ち出したのか?
別の箇所には、「山口五郎」なる名前が登場するけど、明治後は、「山口二郎」と「藤田五郎」の両方を使っていて、たまに混同でもしたというのだろうか?
それと、「…が口述したものだといわれる述者不明」。
このもってまわった言い方は一体、どうしたことだろう?
いったん「夢録」の口述者を「伝・山口次郎老人」としておきながら、すぐその後で「本当の口述者は不明」と言い添えているのだ。
(それとも「述者」というのはこの場合、「筆記者」のことだろうか?)
子母沢寛は、この書物が山口次郎の回想録なのかどうか、かんじんな点の真偽をぼかしている。
「…というにある。」という結び方は、「この夢録が、はたして本当に山口次郎の口述したものなのかどうか疑わしい」という著者の疑念がこめられているように思う。


子母沢寛は三部作を書くとき、永倉新八の「新選組顛末記」の記事をかなり引用しているが、斎藤も永倉同様に、新選組の命運にかかわるような重大事件についての証言を残せる立場だったはずだ。
「夢録」の全文を子母沢寛が目にしていたのなら、それが史実か虚構かをいちおう疑ったにせよ、実際に「遺聞」に出ている楠小十郎斬殺の逸話1つだけを引用して満足できたはずがないと思う。
おそらく子母沢寛はこの書物についてもっと多くを知りたいと望んでいたが、何かの理由でそれができなかったのではないだろうか?
たった一つの痕跡を残して、「夢録」は子母沢寛の手をすりぬけるようにして姿を消した。
楠小十郎の逸話は、子母沢寛が目にすることのできたそのわずかな断片なのか?
それとも子母沢寛自身、この書物については、話には聞いていても、実物を見たことがなかったのだろうか?


「夢録」という題名を誰がつけたのかはわからない。
止められるのを避けたがっていたようだ。
斎藤一自身がこの題名をつけたのなら、彼は「夢=非現実の世界」に託することで、かろうじて過去を明かすことができたのだろう。
これは現実ではない、と前置きしながら、彼は何を語りたかったのだろうか?


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