掲載日:1997/12/26

実は無外流?

斎藤一の剣の流派については今まで、不明であるが 一刀流、あるいは資料によっては、溝口派一刀流であろうと言われてきました。(太子流というのもありました)

子孫の方(藤田進氏)の、「一の父が中間奉公をしている時に、どうも会津藩と懇意になったようなのです。それで一は会津藩の江戸屋敷にある道場で一刀流を教わったといわれています。」という話をもとに、当時 会津藩で指南されていた 一刀流溝口派、真天流、太子流、神道精武流、安光流のうち、様々なことを考え合せて、一刀流溝口派が有力とされていたのだと思います。(また、太子流については、江戸を離れた斎藤(山口)一が、京都で身を寄せた吉田某が太子流の吉田勝見だったのではとみられることからだと思います)

ところが、最近 赤間倭子さんにより、斎藤の剣流は無外流であるということがわかりました。これは某官庁の史料による確実なものだそうです。今更、明かされるあたり、流石 斎藤 奥が深いぜ.....。(もしかして、斎藤一の研究家の方々には周知の事実だったのか?)

無外流は初代 都治月丹(つじげったん)による流儀で、都治は、山口一刀流を山口卜真斎(ぼくしんさい)に学び、免許皆伝となり、のち「無外流」と称して江戸に道場を開いたそうです。この流儀は土佐が有名だそうですが、姫路、明石でも盛んだったとあります。明石といえば斎藤一の祖先の地ですが、都治月丹の祖先もまた 赤石だそうです。

藤田家文書のなかに『藤田家は播磨国明石町山口家より出ず。山口家は江州佐々木氏より出ず。−後略 』とありますが、この江州佐々木氏は都治の祖先と同じだそうなのです。ちょっとおもしろいかも。山口一刀流の山口と、一の山口と 何か関係あるのでしょうか?(すげ− ややっこしい、この辺)

赤間さんによれば、「斎藤一は他に津田一伝流も習得しているが、無外流が主である。」という事です。また、柔術は関口流だそうです。じゅっ、柔術も習っていたのですか.....。

私のイメージでは、斎藤一は柔術などは とんと苦手で、篠原泰之新(柔術師範)などに「たまには柔術をしませんか」なんて誘われて「いっ、いえ 結構です.....。」なんて言って逃げ回っているような感じがしてたですが。

また、この記事の中には、「この流儀の流れを汲む重要人物に斎藤なにがしという人物がいる。この辺から何故、(−中略−)斎藤姓を名のったかが、なんとなく、うっすらと解けるような気がしてくる。」という興味深い記述もありました。

以上の記述については、『幕末最強 新選組10人の組長』「三番隊 斎藤 一/赤間倭子」(歴史読本97年12月号)を参考にさせて頂きました。

また、この記事を入手できましたのも、ひとえに不良中年さん(いいのか、それで本当に..... 一応 北海道のIさんとも入れておきます)の並々ならぬご尽力によるものですので、ここに一言 お礼の言葉を添えさせて頂きたいと思います。
「先生、有り難うございます。ご恩は一生忘れないっす。by 槍」



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